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Archive for the ‘先祖供養’ Category

先祖への語りかけ

 さて、お盆後半戦。毎日の先祖供養は着々と進み、手の中に感じる濁りやら冷たさやらが、少し和らいできた頃…ではないでしょうか。この時期は、やはり普段とは違った気配が増えているように思います。敏感な人などは、苦労の耐えない時期でしょうし、水辺などには成仏の捗らない彷徨う霊がより多く集まってしまいます。

 こういった例を感じるにつけこの世で生きているうちから、死後の世界の存在と、この世だけが全ての終わりではないことを、より多くの人に知ってもらえるようにしたいものです。そんな他愛もない話題を、あなた以外の誰か一人に知ってもらえただけでも、あなたの魂の器は広がりますし、あなたの纏うオーラの色もより強く輝く光へと変動します。

 霊的真理と、魂的真理は全く違いますが、そのどちらをも無視したりすることは出来ない仕組みになっているのが、この人間界です。静かにお仏壇に向き合い、心の中でまだ成仏出来ないでいるご先祖様に語り掛けてみるのも、いいかもしれません。(私はこれをよくしていますが、実に効率がいいです)お盆が過ぎてしまっても、美味しいお茶とお菓子などお供えし、たまには語り掛けて見て下さい。きっと、あなたの何かが変わる筈ですから。

 

茨の道

 真理の世界に携わるようになり、人の相談に乗るようになって感じる一番の大きな壁は、表面的な憑依もさることながら、やはり先祖供養だなと思います。

 大体、精神的にヘンテコな人は、かなりの確立で本人の両親のどちらかの血統から受け継いだ先祖の問題が絡んでいます。自分で自覚症状のないホドの更にヘンテコな人は、もう何処へでも行って好きにして下さればいいけれど、少なくとも私の日記により縁のある方なら、ご自分で定めて産まれて来た今世の意味や、死するまでの僅かな時間に蓄積する真理への知識を感じて頂きたい。

 言葉だけで伝えるには、真理の情報は膨大すぎて、とても私では伝え切れないけれど、この文字から流れる気配を心で読み取り、嗅ぎ取って頂けると、少しは理解出来るようになるかもしれません。

 でも、どう転んでも、自分で決めた道は自分で歩くしか方法はありません。誰かが茨の道をズタボロになりながら歩く姿を見て哀れには思えても、それは私の道ではありません。それに手出しも口出しも、勿論身代わりも許されません。

 どん底まで墜ちても、何処からも救いの手が差し伸べられないように感じたときは、先祖の護りが弱い場合がよくあります。護りの力が弱いために、自分の血族とは関係のない悪霊の憑依を招き、更に墜ちて行きます。それを黙って見ているしかないのも、私の運命なんでしょうかね。そう感じるときが、とても無念です。

 

茨の道

 真理の世界に携わるようになり、人の相談に乗るようになって感じる一番の大きな壁は、表面的な憑依もさることながら、やはり先祖供養だなと思います。
 大体、精神的にヘンテコな人は、かなりの確立で本人の両親のどちらかの血統から受け継いだ先祖の問題が絡んでいます。自分で自覚症状のないホドの更にヘンテコな人は、もう何処へでも行って好きにして下さればいいけれど、少なくとも私の日記により縁のある方なら、ご自分で定めて産まれて来た今世の意味や、死するまでの僅かな時間に蓄積する真理への知識を感じて頂きたい。
 言葉だけで伝えるには、真理の情報は膨大すぎて、とても私では伝え切れないけれど、この文字から流れる気配を心で読み取り、嗅ぎ取って頂けると、少しは理解出来るようになるかもしれません。
 でも、どう転んでも、自分で決めた道は自分で歩くしか方法はありません。誰かが茨の道をズタボロになりながら歩く姿を見て哀れには思えても、それは私の道ではありません。それに手出しも口出しも、勿論身代わりも許されません。
 どん底まで墜ちても、何処からも救いの手が差し伸べられないように感じたときは、先祖の護りが弱い場合がよくあります。護りの力が弱いために、自分の血族とは関係のない悪霊の憑依を招き、更に墜ちて行きます。それを黙って見ているしかないのも、私の運命なんでしょうかね。そう感じるときが、とても無念です。

 

死後の世界

 超〜忙しい一日。夕方からまた忘年会だったが、私の奇妙な話を聞きたがる方がおられたので、ご希望通りにビビらせて差し上げた。この方を真理の世界へ辿り着かせることもなく「いろいろ感じて大変ですな〜」と興味半分に言われるに留まったのが残念ではあるが、死後の世界もまたこの世と同じように存在するということを多少知らしめただけでも、きっと意味はあっただろう。

 真理の世界を学ぶことは大切なことだが、この基本的な法則を伝えることを忘れてはいけない。最近気が付いたのだが、私の最大の片手落ちは、これを私自身がしごく当たり前の常識と捉え過ぎていて、死後も人は生きているということをきちんと伝え切っていなかったことにある。

 もちろん死後の肉体は腐り滅びてしまうが、魂はその後も地上で生活していたのと同じように生きている。それを知って死後の世界へ旅立つのと、無知なまま死後の世界へ旅立つのとでは大きな開きがある。

 以前、無理矢理祓おうとした不成仏霊が悲しそうに私に言った言葉がある。「死んでからも生きてるやなんて、何で誰も(生前に)教えてくれへんかったん??」確かに、日本人として生きている間に、容易く手に入る死後の教義といえば、仏教を基盤とした「地獄界に墜ちる」とか「天国にいける」とか、はたまた「お経を唱えれば助かる」だとか、その手の脅しが垂れ流されている。ゴキブリを叩き潰せば伊勢神宮に一度参拝しただけの利益があるとまで宣った方もおられたほどに、宗教関係者の常識は穢れ切っている。冗談にでもそんな話が出た時には、死後も魂は必ず生きているんだということを、伝えて行かなければと思った次第。

 

死後の世界

 超〜忙しい一日。夕方からまた忘年会だったが、私の奇妙な話を聞きたがる方がおられたので、ご希望通りにビビらせて差し上げた。この方を真理の世界へ辿り着かせることもなく「いろいろ感じて大変ですな〜」と興味半分に言われるに留まったのが残念ではあるが、死後の世界もまたこの世と同じように存在するということを多少知らしめただけでも、きっと意味はあっただろう。
 真理の世界を学ぶことは大切なことだが、この基本的な法則を伝えることを忘れてはいけない。最近気が付いたのだが、私の最大の片手落ちは、これを私自身がしごく当たり前の常識と捉え過ぎていて、死後も人は生きているということをきちんと伝え切っていなかったことにある。
 もちろん死後の肉体は腐り滅びてしまうが、魂はその後も地上で生活していたのと同じように生きている。それを知って死後の世界へ旅立つのと、無知なまま死後の世界へ旅立つのとでは大きな開きがある。
 以前、無理矢理祓おうとした不成仏霊が悲しそうに私に言った言葉がある。「死んでからも生きてるやなんて、何で誰も(生前に)教えてくれへんかったん??」確かに、日本人として生きている間に、容易く手に入る死後の教義といえば、仏教を基盤とした「地獄界に墜ちる」とか「天国にいける」とか、はたまた「お経を唱えれば助かる」だとか、その手の脅しが垂れ流されている。ゴキブリを叩き潰せば伊勢神宮に一度参拝しただけの利益があるとまで宣った方もおられたほどに、宗教関係者の常識は穢れ切っている。冗談にでもそんな話が出た時には、死後も魂は必ず生きているんだということを、伝えて行かなければと思った次第。

 

お供えの花

 物質的な供養に意味はないと昨日書いたが、花だけは違う意味があるらしい。勿論生きた花には特別な力があるようで、人にはないエネルギーを分けてくれる。お供えの花は供える側も、先祖に供える気持ちで活けるわけだから、そのエネルギーは直接、先祖達に届く。生きたモノには物質だけでは計り知れない、エネルギーの交換が起こるようだ。

 暑さで疲れたり、仕事で辛い思いをしたり、家族の中に問題児が居たのなら、どうか家庭内に花を活けて下さい。たったそれだけで、家庭内の波動に微妙な変化が起こります。幸せな家庭なら、更に幸せになるべく花を活けて下さい。食卓や玄関に飾られた花は、それを美しいと眺めてくれる人に無償の愛情を提供してくれます。

 しかし、仏壇のお花ってどうしてあんなに陰気なんでしょう!買いに行っても「仏花」の中に欲しいお花が見つかりません。よしっ、帰宅したら先ずはカサブランカでも買いに行こうかな♪先祖達と、だけどやっぱり自分のために…えへへっ。

 

供養の原点

 今日もお盆の先祖供養をした。やり始めた2年前と違い、印を結んだ手の中はそうは冷えず比較的暖かい。

 外泊しているので床の間にあった花を花瓶ごと借りて、自分の飲んでいる湯飲みをその前に供えての簡易仏壇。そんなモノ(物質)などは所詮相手(ご先祖たち)には見えないので、何度かちゃんと先祖供養をしてきた方には、必死に揃える必要もないだろう。モノに重要性などなく、供養するその精神性こそを先祖達は必要としているからだ。

 なんでも形式に拘る人は、自分の想い描いた人間性に酔いしれているだけで、立派な神社や墓など、神も先祖も誰も望んでなどいやしない。今の自分の立場や社会性に執着しているだけであって、そんな物質など、なんの供養にもなりはしない。

 因みに昨年末に私は祖父を亡くしたが、先週初盆のお参りに出向いた際には、祖父はお坊さんのお経には全く耳も貸さず(多分、聞こえていないのか興味がないんだろう)ひ孫である私のチビを撫でていた。チビも後で、誰かがずっと僕の肩を撫でてたみたいだったから、あれはきっと大きいジージだったんだろうな…と語っていた。

 物質的にどんな供養が出来るのか?ではなく、心の中でどれだけ先祖に感謝の気持ちを持ち、愛情を持って成仏・更なる成長進化を願えるか…供養の原点は、たったそれだけであるような気がしている。

 

お供えの花

 物質的な供養に意味はないと昨日書いたが、花だけは違う意味があるらしい。勿論生きた花には特別な力があるようで、人にはないエネルギーを分けてくれる。お供えの花は供える側も、先祖に供える気持ちで活けるわけだから、そのエネルギーは直接、先祖達に届く。生きたモノには物質だけでは計り知れない、エネルギーの交換が起こるようだ。
 暑さで疲れたり、仕事で辛い思いをしたり、家族の中に問題児が居たのなら、どうか家庭内に花を活けて下さい。たったそれだけで、家庭内の波動に微妙な変化が起こります。幸せな家庭なら、更に幸せになるべく花を活けて下さい。食卓や玄関に飾られた花は、それを美しいと眺めてくれる人に無償の愛情を提供してくれます。
 しかし、仏壇のお花ってどうしてあんなに陰気なんでしょう!買いに行っても「仏花」の中に欲しいお花が見つかりません。よしっ、帰宅したら先ずはカサブランカでも買いに行こうかな♪先祖達と、だけどやっぱり自分のために…えへへっ。

 

供養の原点

 今日もお盆の先祖供養をした。やり始めた2年前と違い、印を結んだ手の中はそうは冷えず比較的暖かい。
 外泊しているので床の間にあった花を花瓶ごと借りて、自分の飲んでいる湯飲みをその前に供えての簡易仏壇。そんなモノ(物質)などは所詮相手(ご先祖たち)には見えないので、何度かちゃんと先祖供養をしてきた方には、必死に揃える必要もないだろう。モノに重要性などなく、供養するその精神性こそを先祖達は必要としているからだ。
 なんでも形式に拘る人は、自分の想い描いた人間性に酔いしれているだけで、立派な神社や墓など、神も先祖も誰も望んでなどいやしない。今の自分の立場や社会性に執着しているだけであって、そんな物質など、なんの供養にもなりはしない。
 因みに昨年末に私は祖父を亡くしたが、先週初盆のお参りに出向いた際には、祖父はお坊さんのお経には全く耳も貸さず(多分、聞こえていないのか興味がないんだろう)ひ孫である私のチビを撫でていた。チビも後で、誰かがずっと僕の肩を撫でてたみたいだったから、あれはきっと大きいジージだったんだろうな…と語っていた。
 物質的にどんな供養が出来るのか?ではなく、心の中でどれだけ先祖に感謝の気持ちを持ち、愛情を持って成仏・更なる成長進化を願えるか…供養の原点は、たったそれだけであるような気がしている。

 

両手の中の銀河

 そろそろお彼岸の季節。また先祖供養に力を入れたい時期でもある。私も準備を始めようかな。大きな花器に生けられた満開の桜の枝をメインに、その周囲に置いた菓子器に菓子を盛り付け、お気に入りの湯飲みに水と、小さなお線香立てを並べて簡易仏壇の出来上がり。

 「私自身と、私の愛児に繋がる全ての先祖霊、及び縁のある霊全ての成仏と、更なる高みへの成長をお祈り致します。今後もわれわれをお導き下さいます様に。」両手の印の中に太陽を呼び出し祈っていると、手の中にとてつもなく広大な渦を巻く銀河が見えた。そしてこちらがヒーリングしているのか、はたまた手の中の銀河からヒーリングされているのか訳が判らなくなってきた。

 あぁ、そうか。どれもこれも私の力などではなく、私は普遍にそこここに存在するエネルギーをただ一箇所に集めただけなんだ。なんだか妙な感動があった。そんな手の中の銀河。その星の数ほどに先祖もまた、存在しているんだろうな…。