本文を縦書で表示することができます→縦書にする | 縦書を解除

Archive for 8月, 2009

脳・そういえば

 あるヒトが言った。「以前、貴女に脳の海馬が萎縮してますって言われて、気になって最近検査に行ったら、本当に脳が全体的に萎縮しているって言われたんです」。本人はなんだか事も無げに、笑いながらそう言った。

 これは当て物ではない。これが事実なら大変なことだ。直ぐに医学的治療が肝要だと思うし、また今なら選べる方法も沢山あるだろう。この方も、怯えからか自分の心の中に精神性を埋没させている。

 外は自由なんだ、何も怖れなくてもいいんだと信じることを、まだおっかなびっくり己の心のドアの内より覗き見ている。事象が起こってから、それに戸惑うのもいいが、その事象に対して、自分かこれからどう向かい合って生きるのか。

 今から先の未来のコトに目を向けて欲しい。答えを出すのはいつも自分自身だ。他人に出来ることは、その答えを導き出すためのお手伝いでしかない。そして脳は、あなたの心をただ映し出しているのに過ぎない…。

 

 相談から。ある方が右の脳が詰まっているようで、最近記憶障害が起こっているようだが、どうするべきか?とあった。正直、私は脳外科医ではないのでよく判らないのだが、これは主に精神的な怯えから来ているように感じられた。自分自身を内側に小さく引き込ませて、中から溢れ出すエネルギーを出せずにいるように思える。

 どういった経路なのかは知らないが、自分で望んで小さく纏まろうと努力しているのだから、自分から望んで脳の回路を寸断してしまうこともあるだろう。

 まさか、自分自身が望んで自分を傷付けることがあるの??そう思われる方も多いだろう。だが、自分が一番、自分の身体を傷付けてしまうのが、この世での肉体と霊と魂の”基本”だ。あなたの強い精神力こそが、あなた自身の全てを掌握している。

 それは健康も、幸せも、人生さえも、だ。「私は十分に満たされているんだ」と強く念じごらんなさい。但し、これは口に出してはいけない。口に出して連呼する者ほど、その心は満たされぬ想いで充満しているからだ。対ヒトにではなく、神に、または更にその奥の天に向かってこそ、言う言葉を間違ってはいけない。脳のシナプスは、常にあなたの精神力を拠り所としていることもまた、忘れてはいけない。

 

恐怖の正体

 様々な相談を受けていて、そのほとんどにある一定の共通しているモノがあることが判って来た。スケールや種類に違いはあれど、結局のところココに漂着し、難儀するようだ。それは『恐怖』。

 勿論、その製造元は紛れも無く御自身である。恐怖とは、ある意味空想の世界の産物でもあり、過剰に何かに反応して…想像しては強張りオノノキ、自分を裁くことで平常心を保とうとし、真理への無知さから来る心の歪みがモノの見方を誤まらせてしまうことである。

 私から見れば、これはもうご本人が自ら愉しんでいるとしか思えないのだが…。本人は必死の形相で、その恐怖からの離脱・克服を望んでいたりする。が、解決方法は結局その恐怖の更に奥にある、自分の怖れている正体を見極めなくてはならない。それは以外に小さく、意外となんでもないようなコトだったりする。なにかに恐怖を感じる方は、その奥に潜む小さな黒いドジョウを見つけて退治してみてください。恐怖なんて、実にあやふやで、他愛もないモノで出来ているんですから。

 

カルマのこと

 『縁』というものについて、考えてみた。仲良し同士の間では互いを大切に想う確認作業的意味合いも手伝うらしくごく自然に、且つ頻繁に使用されている言葉だ。

 が、簡単に使う割には、随分と深い意味を持つ言葉でもあると思える。『縁』にはよい縁もあれば、悪しき縁もあり、今生での縁に留まらず、前世からの縁もあれば、来世にも続く縁もあるだろう。

 『縁』とは今生(とりあえずここでは限定するが)で与えられた脱却するべき自分のカルマ(現世意味的には悪い意味ね)のプレゼンターであったり、過酷なカルマを解き解す役割を担っていたり…。

 しかし、人の出会いには全てに意味があるのだから、『縁』だと信じる程の繋がりを持っている間柄なのであれば、相当のカルマの繋がりもあると言える。過酷なカルマを互いに繋がり合いながら脱却しなくてはならないのなら、過酷から過を取り去って、せめて酷くらいに穏やかに過ごしたいものだ。

 そうするのも、されるのも、全て自分で決定している。『縁』ある人と、そこから齎されているカルマについての相関性など、とても人間には知らされるはずも無く、また理解出来よう筈もないだろうが、天のしくみを少しでも知っていけば、目の前に見せられることも多くなり、大きな艱難を小さなトラブルに変換させることも出来るだろう。

 成長しないからこそ、その目を醒ますために大きな災厄は訪れ、成長をし続けていれば、トラブルなど与えられることもないのだから、どっちがお徳なセットなのか解るだろう。あなたとの『縁』は、今後どう動いていくモノなのか、今後の楽しい課題だと思っています。

 

魂の求めとちっぽけな障害

 人間になってこの年になると、向こうの世界に見送った愛する人たちも多い。思い返してみると、身内に限らず知人友人など…そのうちに向こうでの知り合いの方が多くなっているんだろう。

 今更ながら、死が永久の別れだとは思っていない。これは死後の霊魂の世界の有無を指しているのではない。その更に背後に控える壮大な魂の悠久性を指している。

 魂は一人の人間に入り込んだ後は、ほとんどの場合、そのままのサイズ(スケール)で死を迎える。これは主だった魂の成長に重きを置かず、流されるままに生きた証拠ともいえる。

 が、精神的な成長に目を向け始めると、魂の根底に流れる遥かなエネルギーに触れることが出来るようになるし、魂も一回り、二回りも大きく成長することが出来る。この魂の成長とは、夜店のわたあめ(関西ではわたがし)のような感じで、小さな種(わりばし)にどんどんと肉が巻き付くのに似ている。

 また、魂は毎日ずっとあなたの小さな肉体の中に入ったまんまでもない。壮大なエネルギーを持つ魂を、人間の感性の中に小さく限定しないで欲しい。そんな魂が、あなたの身体に入っている。

 ちょっとした諍いや別れや死が、魂の求めにとってどれだけちっぽけな障害なのか。今宵辺り、ゆっくり星空を眺めてみませんか?魂の偉大さを、星座を追い掛けながら想うのもいいものですよ。

 

別れの意味

 質問より。「地球人にくまなく訪れる死だけでない別れ、貧困、病、天災などがあるが、別れはなぜ共通なのか?」

 大きな災難が与えられてこそ、人間の内なる裁量が試される。例えば、自分だけでは守りきれない、どうしようも出来ない部分に、それらの苦難は遣って来る。

 その時のあなたの初動の感情の動機は?何をしようとし、何を為したか?。(この何を為したか?については、完璧に出来上がらなくても、為そうとして努力したコトの方が大きく関わる。)また、あなた自身でなく、その周囲の人間に対してでも大きな艱難となり、同じように苦り苦しむ問題として立ちはだかるだろう。

 しかし、そこには秘かに天に対しての答えを自ら導き出していかないとならない。

 知ってか知らずか、自ずと答えをそれなりに出している。

 天(事象)を怨むか、天の試練と認めて出来る限りを全うするか、はたまた全てを無気力のうちに無視するか。そうやって様々な別れを通して、魂の鍛錬を肥やしに生きる。これがそもそもの全人類に与えられた『別れ』の必要性であり、生きる意味でもある。

 だが…本当の意味での別れなど、魂のレベルでは有り得ないのだと知る人が…この世で何人居るんだろうか。それさえ知っていれば、泣き叫ぶことの無意味さも理解出来るんだろうに…。また逆を言えば、この時期に来て、それを教えるためにこそ、世界中で今、巨大な天災が続いているのかもしれませんね。

 

疑問

 面白い質問を頂いた。「なぜ感情が在るのか」。それがあるからこそ、自分に振り回され、周囲と摩擦が生じ、最終的に生きる意味を見出していく。神から与え給うた一つの素晴らしいシステム(愛)だと思っている。

 愛し愛され、裏切り裏切られ、憎み憎まれ、守り守られ、それは明らかに生をより豊かに彩ってくれている。と、そんなことは誰でも納得している話だろう。

 ここで話題にしたいのは、そんなことではなく、何故にそんな質問が出たのか?に焦点を当ててみたい。

 少し意地悪な話題になるが、今までの経験で質問される内容というのは、本人の心の叫びと密接にリンクしていて、「なぜ感情が在るのか?」といった言葉の裏に、「なぜ、こんなにも己の感情に苦しまねばならぬのか?」といった意味が込められている。

 私的に言葉を返すなら『なぜ、未だその部分に囚われ拘るのか?』きっと答えはこうなる筈だ。「だって、〜〜なんだもん!」。既に感情を優先しすぎて、その奥にこそ眠る深遠な意味を読み取ることを忘れている。これでは結局、何も解決しないまま問題が先送りされるだけなんだが。たかが質問、されど質問…何気ない疑問一つで心の暗闇が見え隠れしてしまう。さぁて。あなたの疑問は何ですか???

 

幾何学

 魂の形について考えてみた。考えて答えの出るようなモノではないけれど、つくづく不思議な存在だと思う。霊ではなく、また霊や肉体ともコンタクトが取り難く、心(頭)では想像も付かないようなことを内包していたりもする。

 時に新しい魂が古い魂の上に合体することもあれば、一部が抜け出るようなことも起こるようだし…奇怪奇天烈な生命体だと思う。そのくせ無意識下で霊や肉体や心の意志を瞬時に凌駕してしまったりする辺り…ある種、実体の無い宇宙人に寄生されているかのようだ。笑い話のようだが、案外それが真相に近いかもしれない。

 霊・肉体(心)・魂。このそれぞれに棲む階層や次元の違う生き物を一つに無理矢理束ねたのが人間であるからこそ、それぞれに対話が不可能なんだろうか。だからこそ、それぞれの望みを聞き届け、汲み取り、折り合いを付けていかねばならない。あ〜〜、考えていると多次元の幾何学方程式を解いている気分になって混乱してきた(笑)。それで、今日のあなたの魂は何を求めているんだろうか?

 

つながり

 疑問を投げて頂いたので『繋がり』について。これは自分の魂の中心と、太陽の中心と、天の中心とが一直線に繋がっている…と何度も軌道修正しながら、その繋がっているコトを自分の表層意識でも深層意識下でも確信していくことを指しています。

 そうすることによって、「自分は独りだ」などの孤独感も無くなり、恐怖感や孤立感も喪失して行きます。また天や神といった大いなる存在とも繋がっているという自信が、更に真理への理解を深める結果にもなるでしょう。

 これはメンタリティの安易な訓練にも見えますが、本来在るべき魂の姿をこの世で体現しているだけの事です。魂に深い傷の多い人ほど、この事実を頑ななまでに受け入れようとしないのが残念でなりません。

 本当に天や神と、魂の奥底で繋がっていると信じている者は、どんな神々しい姿をした踏み絵ですら、元気よく踏めるんです。だって繋がっているのは、絵ではなく自分自身だと知っているんですから。

 

難儀な・・・

 質問より。『愛や調和の大切さを学ぶコトが魂を輝かせ器を広げることに繋がるのか?』一言で答えるなら、その通りです。けれど、これも微妙なバランスの要る話題で、何かに心を掛け過ぎてもいけない。問題一つに必要以上に拘ってもいけない。

 終わった事柄には捕われず、淡々と眺めることが必要となってきます。学ぶことは簡単ですが、それを頭だけでなく腹の奥底で理解することが何よりも必要です。

 家族などの一番身近な人間関係の中で学ばされるのは実に厳しいモノですが、目を背けることも出来ない状況で己のあやふやな足元を見据えさせられるので、最大の実力を(そんなんイヤやけど)付けさせられているようです。

 必死でそんなことなどを乗り越えたときにこそ、魂のキラメキが増してしまうようです。人間界での苦労が、魂の一番のご馳走なのかもしれません。…難儀なこっちゃ。