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Archive for 9月, 2009

ビジョン2

 遠隔で、被災した人に何の力になれるのか?不思議に思われる方も多いでしょう。けれど、古の時代から心ある人たちの間では当たり前のように行なわれていたと思います。

 それは『自分を愛するように、相手を愛する』ように思いを送るだけで全てが完了します。私達が日頃からよくしているヒーリングといったカタチででもいいでしょう。

 ヒーリングも『自分を癒すように、相手を癒す』事ですから、効果は同じです。では、心を向けられた人にはどういう効果が現れるのでしょうか?先ず、気落ちした人の心にエネルギーが漲ります。やる気と元気と表現すれば理解しやすいでしょうか。

 そして、仮に逃げ惑っていたとしても、正確な逃避回路のようなモノが頭の中に閃きとして現れたり、迅速で明確な行動が取れるようになり、確実に相手の力となれるのです。このお話は、今朝方のメッセージで必ず書くようにとの伝言を天より給わりましたので、ここに印します。

 恐ろしいビジョンも怖るるに足らず!とこの事です。これも試練の一環だそうなので、堂々とやがては来るだろう艱難に備えていて下さい。そして自分に出来ることから、確実にこなしていって下さい。それがあなたに与えられた使命です。

 

ビジョン

 先日見せられたビジョンには、大地が揺れ、地が割け、建物が瓦解し、塵と埃に視界が下がり、逃げ惑う多くの人間の声と、怯えの波動とを見せられていた。やがていつかは、そういった最悪の現象も地球上の何処かには起るんだろうとは予想していたが、自分の生きている時代に現実に…しかも身近に起るとは、どうしても思えなかっただけに、そのビジョンそのものを疑ったし、それを見せた神を「こんなモノ見せるなんて、どうせ大した神クラスではないんだろう」と高を括り、ほんの少し怨んだ。

 しかし、そのビジョンを見せられてからというもの、ここのところの日本はとてもよく揺れているような気がする。が、ここで私がお話したいのは、備蓄を勧めることでもないし(これも大切でしょうが)、逃げることでもない。心の中で、大切に思える人に心を向けてあげる事をお勧めしたいんです。

 被災地に住まう人に「あの人、大丈夫かしら?」と安否を心配すること。気に掛けること。自分にも何か力になってあげることは出来ないかしら?と思うこと。これらも勿論とても大切な目には見えないエネルギーとなりますが、もっと大きな力になれることがあります。これを少しづつ、お話したいと思います。続く

 

苦手なこと

 承天閣の不動尊、いつの時代の誰の作なのか全く見ていなかったが、その瞳には力が漲り、あるレベル以上の神が入っていると容易に理解出来ていたが…どうも私は仏像の類がすっごく苦手である。

 出来れば関わりたくないし、あまり見ていたくもない。以前に三十三間堂の千体もの仏像全てが一気に話し掛けて来たことがあって辟易した体験や、わざと高級霊を騙って単体で話し掛けて来る狐狸の類もあったりで、立派に佇む仏像でロクな体験がなかったからだが(笑)。お陰で未だに人形、ぬいぐるみの類まで苦手である(今は多少、自宅にもあるけどね)。

 広隆寺の弥勒の半跏思惟像ははんなりとした色気があってとても美しいと思うけれど、そんな仏像などはほんの一部のみで、神仏の偉大さを知らしめるための像などには、おおよそ崇高なものなどとは程遠い鬱積したモノを嗅ぎ取ってしまうからかもしれない。

 神や天にはカタチがないと思い込んでしまっているので、こんなにも人工的にカタチ在るモノを嫌悪してしまうんだろうか。これからはこうした自分の拘りも、カタチ無きモノにしていかねば。そう思ったり、願ったり。今だ進化途上でジタバタしている私でした。

 

承天閣美術館3

 神に出会ったとしても、その場で全てを読み取ることなどとても出来ないほどの膨大なデータを人間側は受け取ることになる。が、生身の人間の脳だけでは処理出来なくても、夜に眠ったりすると本来の自分のレベルに応じた(霊的な)階層に戻れるので、どうもその間に受け取った情報を高速処理しているようだ。

 だから頭だけで理解出来ないような内容や、天の声、または己の魂の声などは全て朝、起き抜けに答えが出たり、意味が理解できたり、方法が判ったりするのはある意味では当然なのかもしれない。(コンピューターも電源を入れ直して再起動することで、データを受理したり処理できたりするのに少し似ている。)

 さて、お不動さんからのメッセージを受けた翌朝。昨夜はアレだけジタバタして嫌っていたのだが、意外にあっさりと、しごく当然のように私の内部が”仁”を受け入れており、新たなミッションを受けたかのように活き活きと仁を受け入れて生きようと決心していました。

 直江兼続は兜の前たてに「愛」を掲げていましたが、私は今日から前たてに「仁」を掲げることにしましょうか。”仁”を完全に受け入れられたときには承天閣のあのお不動さんの元をもう一度訪れてみようと思っています。だって、今度こそはちゃんと素直にお礼が言いたいもの♪

 

承天閣美術館2

 スルーしようとしていた男性の声は、こう聴こえていた。『今、そなたに足りぬものが一つある。それは”仁”だ!』2度も同じ台詞で語り掛けて来た。が、その内容の意味を考えようとすると、なんだか腹が立ってきた。

 「なによっ、その仁って?何であんたにそんなこと言われなくちゃなんないのよ!?私のことならほっといてよ〜!」その後はどんな美術品を見たのか覚えても居ない。ただ”仁”の意味がよく理解出来ておらず、なにやら人格否定されたかのようで無性に気分が悪かった。

 その後、いろんな人に聞いてみたが”仁”の意味は仏教では主に「慈悲」を指し、キリスト教では「愛」を指すらしい。…となると、私はお不動さんに「人間的な情がないよ」と諭されたことになる。ん〜、ちょっと複雑な気分になっていた。何故なら他人に関与しすぎると手を出すなと天から叱られ、関与することを止めると慈愛がないよ、と注意されてしまうからだ。一体、どうせいっちゅうねん(怒)!!

 この日は珍しく荒れてしまった。お不動さんや他の誰に当たると言うのではなく、きっと愚鈍な自分自身に。そして素直に聞けなかった自分自身に。そして翌朝になってようやく結論は出たのである…続く。

 

承天閣美術館

 茶道に興味を持つ客人の要望で、京都案内を兼ね承天閣美術館を訪れた。この美術館は京都五山筆頭の相国寺に属する金閣・銀閣寺などが所有する美術品が数多展示されており、その貴重さ、優美さ、洗練さ加減は素晴らしすぎて息を付く事も忘れそうなくらい見事だった。

 さて、そんな禅を基調とする美術品を眺めていると、応挙や若冲の絵画の中に埋もれるように一体だけ安置された、黒光りする古そうな一体の不動明王の像に出会った。その瞳を見ると「あっ、神たんが入ってる…」と思い、とりあえずご挨拶してみた。が、あまり関わりたくなかったので「こんにちは〜」と軽く会釈して、直ぐにその場所から離れた。

 そして周文の描いた宗教画っぽい画に気を取られ眺め入っていたときのこと…。背後から太い男性の大きな声が、私の脳に直接響いてくるのが判った。その声が私に向けられて発せられていることも瞬間的に判ってはいたのだが、敢えて振り向きもせず、聴こえないようなフリをして完全無視を決め込もうとしていた…続く

 

これからのこと

 この夏。あちこちの神さまからアクセスが入っている。その内容の中には、どうしても信じられないような内容も入っていたりして、私自身どう捉えるべきなのかを悩んでいた。

 けれど、私だけの胸の内に留め擱いても意味がないので、これからは少しづつ小出しに書いて行こうと思っている。神たちの伝えたいことは総じて、『これから艱難が来る。が、そこから逃げることを考えるのではなく、何があっても前向きに捉え、そこに留まり、明るく生きること。また、まだ死後の世界への魂的・霊的に無知な者に対して知識を与えること。相手が信じようと信じまいと、独りでも多くの者へそれを伝え続けること。』

 今までも同じようなメッセージは何度も届けられて来ていたが、今回は壮絶な体験を伴って私の中に叩き込まれて来た。それについては、いずれお話することもあるだろう。だが、これらを相手に伝えていくためには、先ず自分が天との繋がりをより太くしておかなければならない。自分の足元を見、自分の位置を知り、自分の目標を明確にしておかなければ、気が付かないうちに少しづつ元居た本流から流されてしまう。…今月はそんな話題から始めるとしようかな。

 

ルーブル

 先日、京都市美術館でルーブル美術館展を観て来た。フェルメールの「レースを編む女」が地球上で一番高価な絵画ではがき2枚分くらいのサイズで100億円だといわれていたが、そんなものにはさして興味もなく…17世紀ヨーロッパの雰囲気を味わいながら、沢山の絵画を眺めていた。

 その中でも一番良かったのがジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工ヨセフ」だった。胸に暖かな光が灯るような、優しい気配に満ちていて、とても素敵な絵画。彼は光と陰のコントラストを大切に描く画家で、きっとその精神は深い宗教への帰依と真理への帰依があったんだろう。近くにお立ち寄りの際は、ぜひ訪れてみて下さい。全体的にいい絵画が沢山ありましたよ。

 

ブヨの恐怖

 先日の御岳キャンプで足元を5箇所もブヨに刺された。夕方は用心して虫除けを塗っていたのだが、ふとした心の隙間にブヨが忍び込んで来たのか、安心して薬を塗らずに居た朝ごはんの時に一気に刺されてしまった。

 最初は悪名高いブヨも大したことないな〜と思っていたら、帰宅した翌日からどんどん足が腫れてきて、まるで象さんの足のようになってしまった。痒みも相当なモノで、フルコート(強い抗生剤)もあまり効かない。掻き壊すと更に痒く感じ、脹脛全体が熱を持ち、股関節のリンパ節までが腫れてきたような気がする。

 ネットで調べるとこれは「ブヨ刺症」と呼ばれる立派な?治療科目だそうで治療方法は飲み薬として抗ヒスタミン剤と外用薬としてステロイド剤が処方され、それでも痒みはなかなか収まらないと書いてあった(涙)。

 薬でも目覚しい効果は無く、岩盤浴の熱でも焼いてみたけど、効果は無く…なんだかちっこい虫にここまで右往左往させられるなんて、口惜しいな…と苦しんでいた時のこと。ふと、あっ、そーいえば伊東テルミー(お線香治療)があったっけ?と思い出し、自分で早速施術した。施術後…ん??薬を塗らなくても痒くない!!数時間後には腫れも引き、赤味も消失して来て、翌日には虫に刺された痕が醜く残るのみとなった。

 恐るべし、伊東テルミー。こんなに凄いものだったのなら、これからはもっと頻繁に利用することにしよおっと。施術ご希望の方、いつでも私までどうぞ♪

 

大雪山・遭難をニュースで見て

 北海道大雪山系のトムラウシ山・美瑛岳で登山ツアー中の二つのパーティーが遭難したそうだ。死者は合計10名。ピカピカの最新式の登山用具を持ち、営業慣れしたガイドを頼り切り、そこらの整備され踏み固められた登山道しか歩いたことがなかったんだろう。

 しかし大雪山はかなりレベルの高い山のようでよく遭難しているし、本州と比べ北海道は緯度が高く山も高い分、防寒に関する準備も最大限に準備するべきだったのに、それが甘かったのは本人達のミスだと思う。

が、今回の遭難は、それだけではないように思えた。これだけの山に登るのに、山(神)に対しての畏敬の念も感謝も、挨拶さえもなかったんではないだろうか?準備の甘さが、心の緩みも同時に見せているように思うのは私だけだろうか?

最近の登山ブームも素敵だが、滑落や遭難などには別の力が働いているように思えてならない。スキルがなければ山には登らないことが、結局は生き残る一番の道なのかな。