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Archive for 5月, 2010

口蹄疫

 宮崎の家畜に口蹄疫が蔓延し、大量の家畜の処分が決定されたとニュースで知った。酪農農家の方の落胆振りも悲壮感が漂っていたが…個人的な意見の一つとして、肉の販売も疫病での処分も、家畜の側からすれば同じことなんだけどなぁ~と醒めた目で眺めていた。

 TVでは家畜がかわいそうだなどとのコメントが多かったが、聞いていて頭の中を奇妙な違和感が走る。命を商品として売ることも、人が生きるための方法の一つなのだろうけれど…この世では自分の行なったことは、必ずら自分に還るという不文律がある。

 私は神ではないので、これらがどう還って来るのかは判らないが、どうか処分される家畜たちが酷く怯えたままで還らないよう祈るばかりだ。どちらにしても霊的に眺めれば、結局は同じことのような気がして切ないニュースですね。

 

悪魔と憑依霊2

 憑依霊は風邪を引いて体力が落ちたときや、ほんの少し気持ちがブレていたり、自分には関係ないのに有名人の葬儀に悲しんだりしているだけで、常に周囲にゴロゴロしている霊を引き込んだり、拾ったりしてしまいます。

 これはお塩を入れたお風呂に入るだけで取れる場合がほとんどですし、一度祓いを覚えられた方ならいつでも自分で出来るようになります。巷に蔓延(はびこ)る憑依を防御するためには、常に自分の波動をある程度の処でキープしておく必要があります。

 一番良い方法は日の出の太陽参拝です。例え、日の出に間に合わなくても、頭の中で日の出の太陽を思い出して心の中だけで参拝しておくだけでも十分です。これで天よりのエネルギーで常に自分を満たしておくように努力すると、憑依によるトラブルは起き難くなるようです。

 ただ、これは対峙療法であって、根源の魂の器や霊格などは上がりません。地道に自分を知り、その心の内部に渦巻くトラウマを解消し、生まれた意味や生きる意味を腹の底で理解していかないことには常に同じ場所での堂々巡り。一生、同じ問題を抱えながら模索することになります。

 そんな中で、目にも見えないはずの憑依霊の問題などが重なり、苦悩と苦痛が増し、悩んだ挙句いつかどこかの能力者の門を叩き、そんな見えない世界があることや、死後の世界を垣間見ることによって、魂の進化へと誘われていくのでしょう。

 憑依霊や悪魔など、この世に不必要なモノなど一つもありません。全て必要悪であり、全て神の意思が図っている現象だと思っています。

 

悪魔と憑依霊について

 悪魔と、憑依霊との相違点について質問がありました。これは単純には答えにくいものですが…悪の波動を帯びているといった観点で論じれば、その悪のレベルは10倍から100倍程は軽く違います。

 普通の憑依霊にももちろんレベルはありますが、憑依霊と呼ばれるモノの正体は“己が死んだことに気が付かぬ霊”もしくはそれが発展して“誰も自分を振り向いてくれないことによる寂しさが恨みに進化した霊”“欲による現世への強い執着を持つ霊”などがあり、どんどんとその悪い波動は強さを増して行きます。

 これに対して悪魔といった存在は、それらを総括した集団から成っていることが多く、意外なことですが人格のようなものを持ちません。人間的な感情に操作されることもなく、怨んだり妬んだりもしない替わりに、淡々と天に唾なす歪んだエネルギーを持つ人を求めて彷徨っているだけのようにも感じます。すなわち、波動がピッタリと合えば途端に自分の中に取り込んでしまうのです。

 悪い波動が悪魔のご飯、と表現しても差し支えないでしょう。悪魔の憑依霊についての相違点については、これから解説することにしましょう。

 

エクソシストしちゃいました3

 では、悪魔の気配とはどういったものなのでしょうか?目には見えません。相談者と向き合っていても特に何も変化はありません。けれど、しばらく普通に話していると、私を取り巻く周囲の空間が嫌な感じに歪んでくるんです。

 眩暈ではなく、時空の歪むような感じ…とでも表現しておきましょうか。勿論、それが普通の気配でないことは長年の経験と勘で判ります。そのまま放っておくと私の手や腕までが痺れてきますが、気配をキャッチした段階で即座に捕まえて祓います。

 祓いはいつものように、だいたい10秒ほど真剣に集中してその場から消し去ります。手の中に摑まえている嫌な気配が消えたら、その悪魔はその人からや、その場から居なくなります。

 しかし、悪魔は完全に消滅しきったわけではありません。この宇宙には光と影が同時に存在するように、神も悪魔も同じ数量で同時に存在しうるものだと思っています。きっと悪魔を必要とする人間の下へ、旅に出ただけなんでしょう。お気をつけあそばせ…悪魔はアナタの心の闇を、目を光らせて見つめているんですから。

 

エクソシストしちゃいました2

 先ず、このような悪魔クラスのモノを引き込んでしまった相談者というのは、やはり人とは違ったエネルギーだとか能力といった未知の部分に魅かれやすい体質である、と言えるでしょう。幼少期時代の激しいトラウマがその出発点であることが多いのですが、この相談者に関しても果たして、そうでした。

 幼少期に周囲から十分認められて育たないと、自分の存在を否定しようとしたり、自分の可能性を認めようとしなくなります。これは子を持つ母親の1人として、その子供の立場での心情を想うと涙がこぼれる位に切なくて悲しいことです。

 勿論両親の当時の心情も、尋常ならざる何かのトラブルは抱えてらしたと思いますが、それは子供には判りません。少しづつ恨みが溜まってもいったんでしょう。そんな弱くて脆くなってしまった心には、足音も立てずに狡猾な悪魔悪霊が忍び寄ります。それの繰り返しを続けた結果、悪魔を沢山抱えてしまったのでしょう。続きます…

 

エクソシストしちゃいました。

 師匠からの紹介で、とある相談者と逢った時の事。パッと出会ったときの気配は普通だったのだが、話している途中からどんどんと周囲の空気が重苦しくなってきたので、「ごめんなさい、ちょっと祓うわね」と言って祓ったものの、これは悪魔クラス。

 なんとか気を持ち直して話を続けていくと、さっきとは違った重苦しい気配が充満してくるので、祓ってみると再び悪魔クラス。これを結局この日に合計3回繰り返した。師匠はこの人に憑いていた6匹の悪魔を祓ったが、その後数日は身体が動かなかったそうだ。「オレは多分、あの時の6匹が限界だったみたいだなぁ~」と言ってらしたのだが、私は内心「大丈夫よっ、これくらいっ」と高を括って、スッキリした相談者を見送ったその夜のこと。毎夜爆睡するはずの私が、ほとんど眠れなかった。

 なにやら悶々とし苛々し、眠たいのに眠れぬ夜を過ごしていた。自分でも祓ってみるが、手応えなどはなにもなく、そこでハタと気が付いた。「これは…悪魔祓いの影響で、自分のパワーが吸い取られ過ぎた事による、気のショック症状なんだ」って。悪魔祓いの連続3連チャンというのも初めてだったのだが、私も相変わらず自分の能力の限界知らずというのは、只の無謀な奴なのか。そんなバカさ加減が愛おしくさえ思えた。悪魔については続きます…

 

扇絵

 先日、大阪市美術館に鴻池コレクションの扇絵を観に行った。扇といえばいわば日用品であり、消耗品でもあるのに、江戸時代を魅了した堂々た絵師達の力作のオンパレードには恐れ入った。

 琳派・浮世絵・四条派など絵に興味のない方でも名前を聞けば思い出せるほどの絵師の手によるものが300枚もあり、その中には十分にお軸として仕立てても見劣らないものも沢山あった。そんな中…。私が魅せられた扇は、どなたの作だったか思い出せないのだが…箔の生地に真っ赤な髪と衣を纏(まと)ったに猩々(しょうじょう)が三人(匹?)、なにやら楽し気に酒を酌み交わす様子を描いたもの…が未だに気になって仕方ない。

 猩々とは能の演目にもあるもので、チビがお稽古で舞うのを見ていたから試着もひとしおなのだが、中国の酒好きな愉快な妖精の一種らしい。楽し気な雰囲気から、きっといい神でも憑いているんだろう。そんなことを考えながら、扇面の小さな世界を一つ一つ覗き込んでいました。美術品には、日常とはまた違った世界観を教えてくれる素晴らしさがあるんですね。お近くの方は、一度ご覧になってみて下さい。

 

遠足in多賀大社3

 多賀大社を後にして、次はBさんが前もって下見をして下さった彦根城へ散策に行きました。城壁の周りをお堀が回りこみ、そのお堀の乱反射した光を求めて木々が水面へと伸びている様は、この新緑の頃には芸術の域へと達するよう。

 ちょっぴりお目当てだった彦ニャンには逢えなかったけれど、お城にも登れて珍しい体験ができました。お城から賑やかな城下町へと繰り出し、メンバーはどこか美味しそうな食べ物はないかな?と散策しみんなでお好み焼き屋さんに入り、またいつもの宴会が始まりました。

 多賀さんのまったりした気配を纏(まと)いながら、緩やかに時間が過ぎて行きます。本当の幸せって、こんな普通のところにあるものなんでしょうね。みんなの笑顔と、郷土のB級グルメと、冷えたビール。今回下見準備を整えてくださったBさん、Kさんに御礼申し上げます。ありがとうございました。楽しい遠足でした♪

 

遠足in多賀大社2

 太鼓の振動に心地好く酔っていると、次は神職の祝詞が淡々と響き…あぁ、いい気分だな~と思っていると、拝殿の奥の方から雲母色したキラキラした空気が流れ込んでくるのが見え(感じ?)ました。

 多賀大社は古事記にも記述されている神社だと由緒書にも書いてありましたが、ご祭神はイザナギの命とイザナミの命で、伊勢の天照さんのご両親でもあります。祈祷の最後には榊の奉納を私が代表で行なわせて頂きましたが、全員で行なう二拝二拍手一拝が寸分の狂いも無く整っていたのがとても心地好く響いていました。

 神事というのは、確かにとても形式ばって見えますが、その形式さえもが我々の天に対する畏敬に繋がっているようでとても素敵に思えました。考えてみれば、神事以外に形式ばったコトなど、今の時代にはほぼ無いに等しい時代ですものね。これからの子供たちには、是非に伝えておきたい文化だと思います。続く…

 

遠足in多賀大社

 春らしい天候に恵まれて、春の遠足は彦根駅での集合に始まりました。メンバーさんたちの乗ってきた数台の車にそれぞれ分乗させてもらい、目的の多賀大社に向かいましたが、神社が近付くにつれて清浄な気配がどんどん濃厚に漂ってくるのが印象的な場所でした。

 鳥居を潜ってみると、細やかな明るく澄み切った空気に満たされており、ここはすごい神たんのいたはる場所やねんなぁ~!と改めて感動。入り口付近の太鼓橋あたりはテキトーなレベルの神や霊がタムロしてましたが、我々が太鼓橋によじ登るようにしてキャーキャー言ってたのにはさすがにたじろいだ様で、そのどれもが傍にも来れない様子だったのが面白かったです。

 神社という場所は不思議な処で、神に対面する為の神聖な場所ではあるのですが、その参道や鳥居周辺には得体の知れぬ怪しげなモノが大量にタムロしており、ちょっと気を抜いていたり、波動の悪い人や、ずるい事を考えたりしていると、ひょいと飛び乗ってくっ付いて来てしまいます。素直に参拝が楽しいものだと思っている人には、決してくっついたりしないのでご安心を。

 さて、多賀大社に参拝してから祈祷に移ります。拝殿に上がってお澄まししていると…巫女の大太鼓を打つ音で始まり、空気を振動させながら耳や脳や胸、腹そして魂にまでその振動が伝わるかのようで、スッと神と自分とを繋げてくれたようです。続く…